戦国時代
足利義教が暗殺された後、幕府では守護大名の間で勢力争いが激しくなった。将軍のあとつぎをめぐる争いに、有力な守護大名の細川氏と山名氏の勢力争いがからんで1467年に起こったのが応仁の乱である。応仁の乱は京都を中心に11年にわたり戦乱が続いたため、京都は焼け野原になり、幕府の力は衰え、戦国時代へとなっていった。
山城国で武士と農民が一体となって守護大名を追い払って自治をおこなったのが山城国一揆である。1485年から8年間にわたった。浄土真宗の信仰で結びついた武士や農民たちが起こした一揆が一向一揆である。各地でさかんにおこなわれたが加賀の一向一揆は守護大名を滅ぼし、1488年から約100年にわたって自治をおこなった。
実力のあるものが、上の身分のものに打ち勝つ風潮を下剋上という。とくに応仁の乱以降、全国に広がっていった。
下剋上によって家臣が守護大名の地位をうばって実権を握ったり、守護大名が成長したりして各地に登場してきたのが戦国大名である。
戦国大名はそれまで山に築いていた城を平地に築くようにして、家来の武士を城下町に集めた。さらに産業の発展のため商工業者も呼び寄せた。また、武士や農民などの行動を統制するため独自の分国法を定め、領国を豊かにするため様々な政策を行った。
室町文化
足利義満のころに栄えた文化を北山文化という。室町時代初期の文化で、公家文化と武家文化がまざりあった特徴があった。
義満が京都の北山に建てたのが金閣で、公家の寝殿造と武家の禅寺の様式がくみあわされて北山文化の特色が表されている。
銀閣は足利義政が東山に建てた別荘で、このころの武士を担い手とする簡素で気品のある文化が東山文化である。
銀閣に取り入れられた書院造は禅宗の寺院の様式を住宅に取り入れたもので、床の間が設けられた。
観阿弥・世阿弥親子が猿楽や田楽から能を完成させた。
鎌倉時代に栄西がもたらした茶を飲む習慣は、このころ広まり、茶の産地をあてる会が行われるなど茶の湯のさきがけとなった。
人々が集まり和歌の上の句と下の句を次々によむ連歌はもともと貴族の遊びだったが、人々の寄合にふさわしい文化として流行した
宋や元で盛んだった、墨一色で自然などを表現する水墨画は禅僧を中心にえがかれた。大内氏の援助で中国にわたった雪舟は中国で水墨画を学び、日本の水墨画を完成させた。
天下一といわれた善阿弥をはじめとして庭園造りをおこなったのは河原者として差別された人々だった。
能の合間に演じられた、民衆の生活や感情をよく表した劇が狂言である。猿楽が能に発展する中、猿楽の滑稽な部分が強調され喜劇である狂言となっていった。
武士や都市の有力者が寺で子どもに教育を受けさせるようになったことで御伽草子も盛んに読まれた。
上杉氏が保護し、儒学を学んだ足利学校は中世唯一の学校で、全国から人材が集まった。
浄土真宗は親鸞が鎌倉時代初期にはじめた仏教の宗派で一向宗ともいう。室町時代に蓮如が北陸地方に進出し身分の低い武士や農民に教えを広めた。
日蓮宗は鎌倉時代に日蓮によって開かれた宗派で法華宗ともいう。室町時代に京都や堺の商工業者に広まった。
鎌倉時代に栄西、道元によって中国からつたえられた禅宗は京都や鎌倉の五山と呼ばれるそれぞれ5つの主要な寺院を中心に幕府の保護を受け、武士の間に広まった。