南北朝時代
モンゴル高原の遊牧騎馬民族をチンギス・ハンが統一し、モンゴル帝国はユーラシア大陸の東西にまたがる広大な帝国になった。
モンゴル帝国第5代の皇帝フビライが都を大都(北京)に移し、国名も中国風の元にした。1279年には中国全土を支配した。
元の皇帝フビライ・ハンに長い間仕えたイタリア商人のマルコポーロがベネチアにもどったのち戦争捕虜となって,牢内で旅行の見聞を話したものが『世界の記述』(東方見聞録)である。
高麗は新羅に代わって10世紀に朝鮮半島を統一した。1259年にモンゴルに服従した。
フビライが高麗を征服した後、日本に朝貢を要求するため使者を送ってきたが、執権北条時宗が無視した。
時宗によって要求を拒まれたフビライは大軍を送ってきた。1274年の文永の役、1281年の弘安の役の2度にわたる襲来を元寇(蒙古襲来)という。
御家人は分割相続で土地が小さくなり、元寇では恩賞ももらえず、次の元の襲来に対する備えなどで生活が苦しくなっていった。そこで御家人を救おうとして幕府が徳政令を出すが、あまり効果はなかった。
経済が発展した近畿地方を中心に、幕府に従わず、年貢をうばったりする武士が現れ、悪党と呼ばれた。
後醍醐天皇は政治の実権を朝廷に取り戻すため幕府を倒そうとして一度は隠岐に流されるも、党勢力の楠木正成や幕府に不満をもつ御家人の足利尊氏や新田義貞を味方につけて幕府をほろぼした。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、天皇中心の新しい政治(武の新政)を始めた。建武の新政は貴族を重視して武家の政治を否定したため、尊氏が武家政権の復活をめざして挙兵し、建武の新政は2年ほどで終わった。
尊氏が挙兵したことで後醍醐天皇は吉野にのがれ、尊氏は京都で新しい天皇をたてたため、京都と吉野の2つの朝廷がうまれた。これを南北朝という。
全国の武士が京都(北朝)と吉野(南朝)の2つの勢力に分かれて約60年間争った。
室町時代
第3代将軍足利義満は1392年に、南北朝を統一し、内乱を終わらせた。義満が京都の室町に御所をおいたので室町幕府という。
南北朝時代に権限を強化された守護はしだいに領国の武士と主従関係を結び、国を支配する守護大名となっていった。
室町幕府で将軍の補佐役として管領が置かれた。管領と、侍所の長官には有力な守護大名が任命された。
前の時代に幕府の置かれていた鎌倉には鎌倉府が置かれ、その長官である鎌倉公方には足利一族がなったいたが、次第に幕府と対立するようになっていった。
幕府は京都で土倉、酒屋などの金融業者を保護して税金を取り財源とした。