ヨーロッパ中世
4世紀末に東西に分裂したローマ帝国の東半分がビザンツ帝国で東ローマ帝国ともいう。西ローマ帝国は5世紀に滅んでしまったがビザンツ帝国は15世紀まで続いた。ヨーロッパではキリスト教が各地に広まりザンツ帝国の国教として正教会が、西ヨーロッパではカトリック教会が発展していた。そのカトリック教会のトップであるローマ教皇(法王)は国王を超える大きな権力を持っていた。
アラビア半島からはじまったイスラム勢力はインドからイベリア半島に至る広大な地域を支配し、キリスト教の聖地でもあるエルサレムはビザンツ帝国から奪われてイスラム勢力の支配下に入った。イスラム勢力に奪われた聖地エルサレム奪回を教皇が呼びかけると、西ヨーロッパ諸国の王や貴族が十字軍を組織した。
最終的に十字軍はエルサレム奪回には失敗し、教皇の権威は弱まったが、それまで閉ざされていたヨーロッパがイスラム世界との交流が活発になり、イスラム世界の進んだ文化やビザンツとの交流からギリシャ・ローマの文化を理想とする風潮からルネサンスが生まれた。それまでの教会の影響を強く受けた文化と異なり、ルネサンスが理想としたのは人間中心のギリシャ・ローマの文化である。
十字軍失敗の後、権威の衰えたカトリック教会が大聖堂修築の資金集めのために免罪符(しょくゆう状)を売り出した。「罪を犯しても献金すれば許される」としたカトリック教会に対して、信仰のよりどころを聖書だけとするルターやカルバンが宗教改革をおこした。
ルターやカルバンの考えを支持した人々は「抗議する者」という意味のプロテスタントとよばれた。西ヨーロッパのキリスト教はカトリックとプロテスタントにわかれた。
プロテスタントに対抗してカトリック教会内部で創設され、海外への布教などを行った団体がイエズス会である。イエズス会はアジアなどへも布教をおこなって、ザビエルが日本に来た。
大航海時代
船の航行で方位を知るための羅針盤は中国で発明され、イスラムを通じてヨーロッパにもたらされルネサンスの時期に実用化された。この羅針盤、航海術の進歩、世界地図がつくられたことなどで、新航路開拓や新大陸発見の大航海時代がはじまった。
香辛料などアジアの産物はイスラム商人が仲介してヨーロッパに入ってきたため、非常に高価だった。そのためアジアの産物を直接手に入れようと新航路が開拓された。
1498年ポルトガルのバスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわってインドに到達し、インド航路が開かれた。これによりポルトガルはアジアへ進出しそれまでイスラム商人が支配していたインド洋や東南アジア海域での中継貿易を行うようになった。
コロンブスはスペインの援助を受けて1492年、大西洋を横断してカリブ海の島(西インド諸島)に到達した。コロンブスが到達した西インド諸島の近くには南北アメリカ大陸があり、アステカ王国やインカ帝国など、独自の文明が栄えていた。スペイン人はその文明を滅ぼし植民地とした。
植民地では銀の鉱山やさとうきびの大農園で先住民族を働かせ、厳しい労働や伝染病で先住民族が減少した。労働力が足りなくなるとアフリカの人々を奴隷としてアメリカ大陸に連れてきた。
マゼランの船隊はスペインの援助で世界一周をなしとげた。
オランダは16世紀末にスペインから独立して、東インド会社を設立しアジア貿易に進出し、日本などとも貿易した。17世紀にはヨーロッパの貿易と金融の中心となった。