江戸初期の外交と鎖国
朱印状を持った船が朱印船で、それが行う貿易を朱印船貿易という。家康は貿易を統制下に置き、利益を独占するため貿易を行う大名や豪商に渡航を許す朱印状を与えて収入の一部を幕府に納めさせた。また、東南アジアの国々には朱印船の保護を依頼した。朱印船貿易は盛んにおこなわれ、東南アジアには日本町ができた。日本は明と直接貿易していなかったが東南アジア経由で中国産の生糸や絹織物を輸入し、日本からは主に銀が輸出された
キリシタンへの迫害と重い年貢の取り立てに苦しんだ人々が天草四郎という少年を大将として1637年に起こしたのが島原・天草一揆である。島原・天草一揆の後、幕府はポルトガル船の来航を禁止した。1639年にポルトガル船の来航を禁じたあと、1641年には平戸のオランダ商館を出島に移した結果、中国とオランダだけが長崎で貿易を許されることになった。
幕府は改宗したキリシタンを監視し、キリシタンを発見するために絵踏をおこなった。幕府はキリスト教の禁教を徹底するため、人々の宗教を調べ、寺に仏教徒であることを証明させた。
江戸幕府成立後、対馬藩の宗氏が朝鮮と交渉し国交が回復した。対馬藩は、朝鮮の釜山に倭館に役人を派遣し、貿易などを行った。将軍の代がわりごとに朝鮮から来た使節を朝鮮通信使といい、江戸時代計12回訪れ、一行の中には優れた学者などもいて日本の学者と交流した。