大正時代
パリ講和会議では、民族は自らの意志でその政治的運命を決定する権利があり他からの干渉を認めないという民族自決により、東ヨーロッパ諸国は独立したが、アジア・アフリカの植民地には適用されなかった。このため、中国や朝鮮、インドなどアジアで民族運動がさかんになった。
第一次世界大戦中、イギリスは植民地のインドに対して自治を約束しインド人を兵士として動員したが、戦争後その約束をイギリスが守らなかったためインドで抵抗運動が高まった。ガンディーの指導のもとイギリス商品の購入をやめたり、税金を納めることを拒否したりするなど「非暴力・不服従」の抵抗運動が起こった。
日露戦争前後には、藩閥と政党中心の内閣が交互に政権を担当したが、1912年立憲政友会の内閣が倒れて藩閥の桂太郎が首相になると第一次護憲運動が起こり桂太郎内閣は退陣した。第一次世界大戦中、日本は好景気になって物価が上昇した。さらにシベリア出兵をみこして米の買い占めが行われたため米価が高騰し米騒動が全国に広がった。 藩閥の寺内内閣が米騒動によって退陣した後、首相となった原敬が初の本格的政党内閣をつくった。原敬は華族でなかったことから平民宰相とよばれ、選挙権を持つのに必要な納税額を引き下げたりした。原敬のつくった政党内閣は陸軍、海軍、外務の3大臣以外はすべて衆議院第一党の立憲政友会の党員であった。
第一次世界大戦中の経済の発展によって労働者が大幅に増加し、労働争議も増加した。小作争議も第一次世界大戦後に増加し、1922年には全国組織の日本農民組合が結成された。