日露戦争
日清戦争に負けた清には欧米各国が進出し、それを排除しようとする動きが活発になった。1899に扶清滅洋を唱える義和団が蜂起して外国公使館を包囲したが日本や列強が連合軍を結成して出兵し鎮圧した。これを義和団事件または北清事変という。
ロシアは満州に大軍を送り、義和団事件の後も軍をとどめて満州を勢力下に置こうとした。
清に利権があるイギリスと、韓国を勢力下に置きたい日本は、ともにロシアが満州に進出してくることに反対でこの点で利害が一致し1902年日英同盟を結んだ。日本は日英同盟をうしろだてにして、世論も開戦を主張する声が高まる中1904年日露戦争がはじまった。日露戦争に対しては開戦を主張する世論が強かったが、一部で根強い戦争反対の声もあった。キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水、歌人の与謝野晶子などである。
戦力が限界だった日本に対し、国内で革命運動の起こったロシアも戦争継続が困難になりアメリカの仲介でポーツマス条約が結ばれた。ポーツマス条約では漁業権、日本の韓国における優越権を認め、旅順、大連の租借権、鉄道利権、南樺太などを得たが賠償金は得られなかった。戦争中、重い税金などの負担や犠牲に苦しんだ国民は、ロシアから賠償金を得られないことがわかると政府の弱腰を批判し日比谷焼打事件などの暴動も起こった。
1905年、日本は韓国の外交権を奪い保護国とし韓国統監府を置き、初代統監には伊藤博文が就任した。韓国で抵抗運動(義兵運動)が広がり1909年、伊藤博文は義兵運動家の安重根に暗殺された。1910年日本は韓国を併合して植民地とし、韓国は「朝鮮」に、首都の漢城は「京城」と改めた。そして強い権限を持つ朝鮮総督府を設置して支配した。また、日本は満州南部を勢力範囲にして南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立し満州における利権を独占していった。
孫文は民族の独立、政治的な民主化、民衆の生活の安定を目指す三民主義を唱え、1911年に辛亥革命が起こし、その翌年孫文が臨時大統領となって南京を首都とする中華民国が建国された。孫文にかわって大統領となった清朝の実力者だった袁世凱は独裁的な政治を行い中国では混乱が続いた。