アヘン戦争
18世紀から19世紀、イギリスは清から茶や絹、陶磁器などを輸入していた。清はイギリスとの貿易を広州1港に制限していた。イギリスは中国との貿易が赤字だったため、インドへ綿製品などの工業製品を輸出し、インドで栽培したアヘンを清へ密輸して利益を得る三角貿易を行った。アヘンの中毒患者が増加したこともあり、清がアヘンの売買を厳しく取り締まるとイギリスが清を攻撃してアヘン戦争がはじまった。アヘン戦争に勝利したイギリスは清と不平等な条約である南京条約を結び、上海など5つの港を開港させ、香港を手に入れ、賠償金を払わせた。清では戦費や賠償金のために増税したこともあり、洪秀全が太平天国の乱をおこした。
開国
1853年、軍艦4隻で浦賀に来航したペリーは大統領の国書を幕府に受け取らせ、翌年再び来航し日米和親条約を結んだ。この条約では下田と函館の2港を開き、アメリカの領事を下田に置き、アメリカ船に食料や石炭、水を供給することを認めた。
アメリカ総領事のハリスが幕府に通商条約の締結を求め、幕府は反対派を抑えるために朝廷の許可を求めようとしたが、許可されなかった。新しく大老になった井伊直弼は朝廷の許可のないまま日米修好通商条約を結んだ。この条約では神奈川(横浜),函館、長崎、兵庫(神戸)、新潟の5港を開き、外国人居留地での自由貿易を認めた。
外国人の犯罪を、罪をおかした国で裁判せずに、その外国の領事が裁判を行う権利を領事裁判権という。関税は自国の産業を保護するため輸入品などにかけるものである。国が輸入品や輸出品に自由に関税をかけることのできる権利が関税自主権である。日米修好通商条約では日本に関税自主権がなかく、領事裁判権を認めた不平等条約だった。